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活動目的

無垢(むく)
煩悩のけがれを離れて、清浄であること。

私たちの活動目的

“いきがい”を、みんなの手で作りましょう。

日本とフランスの福祉、文化、芸術をつなげて、助け合い、 共生社会を生み出すプロジェクトを実行することで、生きている意味をよりわかりやすく、一人でも多くの方が、笑顔で明るく過ごせる社会を目指します。

障害への理解向上、生活の質の向上、将来への不安の軽減などを目的に、当事者のみならず、その親御さんとご家族、支援されている方や行政の取組みに至る情報交換を、日本とフランス間で行います。

日本の着物文化、フランスのレース刺繍文化のように、互いの多様な文化を福祉支援と絡めて紹介します。

アート作品の交流を、日本とフランスで行います。
障害者アートという枠組みを超え、一人の芸術家としての作品交流を目指します。

私たちの紹介

代表 久田仁子
東京でプライベートや企業のオフィシャルなイベントの企画・コーディネートのキャリアを長年積んだ私は、一転、 日本人夫と娘の三人で東京の中心からFranceへ移住し、全てがゼロスタートとなりました。 そんな私をPauの街は、優しく温かく迎え入れてくれた。今心地よく安心して過ごせているのは、日々感じる「人 情」と、心で対話してくれるこの地の人々の温もりと愛によるもの。 その中で私に、社会での居場所(役割)を与えてくれたのが、一人の障害を持つフランス人女性でした。 彼女との出逢いで気付かされたことは、五体満足でも異国では思う様に言葉が通じない私と、生まれもった障害が ある彼女とが助け合えば、一人前ということ。 自分だけの空間から一歩踏み出した先の社会における共生は、一人一人の心持ち次第でいかようにでも調和するのではないでしょうか。日本語に「思いやり」という言葉があるように。
人生の大半を国際協力に貢献して他界した私の父は「国を越え、人種・言葉の壁を越え、人と人との心からの対話 で社会に役立つ働きを」という教えを私たち子供に諭し、自らの背中を見せることで教えてくれました。 今私は、その言葉に「障害の有無を越え」という言葉を一つ加えたいと思います。そして二人の素晴らしい友人と 共に、今現在、フランスと日本で出逢い支えて下さっている関係者の皆様に感謝しながら、またこれから出逢う方々 とのご縁に期待を膨らませながら、一歩一歩着実に社会貢献していきます。 物を売る、買うだけの行為だけでなく、それらを通じて出逢う人とのご縁、対話が何より重要で、それこそが人生 の宝になると信じています。
秘書 ドゥルク ソレン
私は日本を訪れた際、幸運にも着付師の師匠の下で三年間、和服の着付と歴史等を学び、着付師の資格を取得する機会を得ました。
和服の勉強を通じて、大変多くの人と出逢うことができ、彼らは皆、私を温かく受入れてくれました。
彼らとの交流を通じて、私は伝統的な日本文化のみならず、現代的な日常の風習にも触れることができました。
これらの経験が、私に人生についてより深く考え、同時に、私を取り巻く異なる価値観についても知るものとなります。
自身と向き合い、自己探求へとつながり、そして、自分にとって何が重要で、何に情熱を注げるのか、という気付きを与えてくれたのです。
その後母国に戻り、同じ価値観に共鳴し合える仁子と宣枝とこの地で出逢えたことは、まさに巡り合わせという縁であり、アソシエーション MUKUの立ち上げへとつながりました。
私たちの活動が、世界中に存在する多様性を認め合い、理解し合うきっかけとなり、どんな人々にとっても、それぞれの生き方や表現の自由を与えられるものであることを、私は願っています。

感謝を込めて

Bric O Truc(ブリック オ トルック)のご紹介
「Bric O Truc」との出逢いから、MUKUは生まれました。
Pau市街地に店を構えるAssociation Bric O Trucは、人々から寄付される、不要となった家具を修理したり、食器や雑貨を磨き上げ、必要に応じて新しいものへと生まれ変わらせ、それらに第二の命を吹き込み、商品として販売する店舗を運営しています。
この団体は、アペール症候群という重度の障害を負って生まれてきたナターシャという女性の為に設立されました。
彼女は、社会で普通に活動したいと願い、義務教育の普通科を経て、職業訓練学校で会計士の資格を取得しました。
更には、多くのインターンシップも経験し、自立への準備を重ねました。
しかし、社会に出て実際に働く場やチャンスは、与えられなかったのです。
そこで、彼女の両親とその友人達が、ナターシャが社会的孤立をするのでは無く、社会の一員として自立し、働ける場を作ろうと決意し、一つの大きな挑戦へ踏み切りました。
市民のための市民による非営利団体Association Bric O Trucは、こうして生まれました。
ナターシャは、日々のボランティアに囲まれ、彼らと共に、寄付された品々に、様々なアイディアやクリエイティブな発想という新たな命を与え、次の愛用者の手へと、送り出しています。
また、彼らの店舗が、人と人との繋がりを生み、人々の拠り所となる存在となっています。
私たちMUKUの代表久田仁子は、近所にあるこの店舗に心惹かれ、2019年からボランティアの一員として参加。
彼らとの心からの交流により、MUKUの活動目的に掲げている夢を抱き、その実現へと至りました。

日本の皆様には、Bric O Trucの名前の背景を、フランス文化と共に解説を添えます。
Brocante:ブロカント(フランス語・古物商の意)、所謂「蚤の市」はフランス文化の一つ。
愛用していた人の想いが詰まった古道具が、新たな出逢いを見つける場でもあり、ナターシャもBrocanteを訪れるのが大好き。
Bricolage:ブリコラージュ(フランス語・繕う等の意)。DIY好きなフランス人(得意不得意は別として^^)は、様々なオリジナリティ溢れるアイディアとこだわりで、お家の改装から家具作り、洋裁等、比較的なんでも挑戦します。
ナターシャのお店にも、一見ガラクタと思われる古道具が、何やら面白いオブジェに変身し息吹を吹き返してみたり、お客様からの依頼で、ゼロから作品が生まれたりしてます。
広瀬憲一先生のご紹介とフォントシャボンについて
私たちのロゴを見て、みなさん、最初にどんな印象を抱かれましたか?
ぜひ、いろいろな声を聞かせてください。

このロゴは、広瀬憲一氏により生み出され、フォントシャボンと名づけられました。
シャボン。
空に、丸く、虹色に輝きながら、ふわふわと浮かんでいく、シャボン。
誰でも一度は、空に向かってシャボンを吹いたことがあるのではないでしょうか。
その時の気持ちはどんなでしたか?
シャボンのように、空高く浮かんでみたい。
夢や希望を、このシャボンにこめ、願ったりしませんでしたか。
時には、どこまで膨らませられるか、焦る気持ちを抑えながら、静かに息を吹き入れ、虹色の光に惚れ惚れしたり。
いろいろな思い出が蘇ってくることと思います。

フォントシャボンが生まれたのは、2019 年、小さな小さなウィルスによって瞬時に世界が混乱し、日常がストップし、繋がりを途絶えさせられた人々の心は、不安という暗闇に覆われた日々の中でした。
東京の空の下、広瀬憲一氏のハートから溢れ出て、生まれたフォントシャボン。
まさに、人々の心に希望という光を差し込むかのように、世界中の人々が不安を払拭したいと願いをこめ、空高く吹き出したかのような、フォントシャボン。

時同じくして、私たちMUKU のメンバーも、フランス南西部のこの地で、この不安に押し潰されるのでは無く、今だからこそ行動を起さなければならないコとは何か、真剣に対話を重ねていました。

広瀬憲一氏とは、横浜の専門学校で教師として共に後輩育成に携わっていた時に出逢い、人生の大先輩である彼の内から溢れる才能、笑顔とユーモア、それらが融合し日々生まれる素晴らしい数々のデザインに、魅了されていました。

私たちのプロジェクトは、私たちが負う多くの方々の願いだけでなく、それぞれの場所で、志同じく抱き、挑戦している人々の願いをも、叶えていくものであって欲しい。だからこそ、このフォントシャボンにその思いを込めて、広瀬 氏にロゴを作成してもらいました。
このロゴ、そしてフォントシャボンが、これから世界にはばたき、一人でも多くの人々に、親しまれ、それぞれの希望をシャボンにのせて、空いっぱいにひろがっていきますように。

広瀬憲一氏経歴
1940 年 東京生まれ
1959 年 テキスタイルデザイン粟辻博氏に師事
1963 年 御茶ノ水美術学院本科デザイン課卒
早川良雄デザイン事務所入社
1966 年 シウ・グラフィカ入社
1975 年 広瀬憲一デザイン事務所設立
日本タイポグラフィ協会入会

その後、自身の作品展示会開催及び数多くのタイポグラフィ展をプロデュース
タイポグラフィデザイナーとして現役を続けながら、次世代の後輩育成にも携わり、教え子達のデザインコンペでの入選を実現するなど、講師としての経歴も長く、慕われる存在。
現在も、毎年開催されるタイポグラフィ年鑑展に自身の作品を出展し、これまでに40 点の作品が入選。
現在は、趣味である釣り、テニス、そして自宅のベランダから富士山の写真撮影に興じていらっしゃいます。
もちろん、脳トレと称し、日々新しいデザインを、持ち前のユーモアで生み出しながら・・・。

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